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シンガーの渡ケントさん、階上移住1年 暮らしと音楽に変化、「わたスぺ」で得た「余白」とは

 シンガー・ソングライターの渡ケントさんが階上町(はしかみちょう)に移住して、3月15日で1年がたつ。

 群馬県伊勢崎市出身。聴覚に障害を持つ両親の元で育った影響もあり、同市の行政機関で社会福祉士として働いた。現場で人と触れ合う仕事がしたいと、障害者アートに取り組む埼玉県川口市の障害者福祉施設に転職。社会人としての日々を送る傍ら、サブスクやインスタグラムで楽曲を配信し続けた。

 現在は、妻の上野莉歩さんが経営する階上駅近くの交流スペース「わたしの素(ス)ペース(わたスぺ)」の一角で「古物屋 Sonomono」を開き、地域の人々と交流する日々を送りながら、音楽活動やPodcast配信に取り組む。

 「自分の柱は音楽、福祉、古い物。最後に残ったのが、古い物だった」と語るケントさん。階上へ移住は、自身の主軸を「音楽」に移す時間でもあった。柱の一つだった福祉の仕事を辞めて、縁もゆかりもない階上で新しい生活を始めた。この1年は「自分の音楽をもう一度作り直す時間だった」という。

 関東から青森へ。階上での暮らしで自身に起きた変化を聞いてみた。

福祉の仕事と音楽

 関東での暮らしの柱は「福祉」だった。

 関東を拠点としていた2020年発表の楽曲「ガラクタなまいにち」では「どこにいたって ほら居場所がないよな」「朝は決まって起きたく無(な)いよな 鏡に向かって死にたいと呟(つぶや)く」と細い声で歌う一方、移住直前の2025年2月に制作した楽曲「人生」は「そうさ人生は思うより上手(うま)くいくものなのかもしれない」と声を枯らす。

 自身の表現を追求しようと「kento(ケント)」名義でソロ活動を始めたのは9年ほど前。学生時代から組んでいたバンドの活動がフェードアウトしていった頃だった。インスタグラムでカバー曲の動画配信を始めた。2022年に「渡ケント」に改名し、自身の楽曲を主軸にした活動を始めた。

 伊勢崎や川口での福祉系の仕事にはやりがいを感じていたが、疲弊する毎日でもあった。「ガラクタなまいにち」のサビは「音を鳴らすだけ、声を震わせるだけなのに意味を重ねる。ただそれだけで今日も生きていける」とつづる。音楽が生きがいだった。

体調の変化と、階上との出合い

 2023年、関東で知り合った莉歩さんが福島県葛尾村の地域振興団体での仕事を経て、生まれ故郷の階上町にUターンすることに。階上駅近くのみそ蔵を改装して「わたスぺ」を作るためだった。遠距離恋愛の中、仕事への不安から呼吸が浅くなったり、脈拍が速くなったりすることが増えていったという。

「関東で作る音楽は感情の吐露だった。好きな仕事はできていたが、全ての動きが早く、辛さや悲しさをエネルギーに変えて曲を作っていた。苦しさを曲で昇華して、ライブでの(来場客の)フィードバックでぎりぎり自分を保っていた」

 ケントさんが初めて階上の地を踏んだのは2024年4月。莉歩さんが開業準備を進めていた「わたスペ」を訪れ、施設に置くキッチンカーで提供するキーマカレーの試食イベントの運営を手伝った。

 イベント後、音の響きを確認しようと施設内で自身の歌を歌っていると近隣の人が入ってきた。「川の流れのように」を歌うと、栄養ドリンクと5,000円をくれた。

 関東での苦しい日々と、階上で得た感覚。「健やかに自分を続けられる場所」の必要性を感じるようになり、階上への移住を決めた。

「余白」が与えてくれた、曲作りの変化

 情報過多な関東の暮らしを離れ移り住んだ階上は、鳥の声が響き、近くに海もある環境。この1年は「余白」が増えたという。

「階上に来てすぐは、楽しすぎて曲が作れなくなった。『楽しい』という感情を音楽的に翻訳したことがなかった」

 現在は、階上に暮らす人から聞いた話を基にした楽曲「海へ」の制作に取り組む。自身が階上での暮らしに楽しさを感じている一方、近隣には窮屈さを感じている人もいると感じたという。

「内側から沸く悲しさを音楽にすることをいったんやめ、楽しさや、救い取ったものを曲にしていけたら」

 自身の心に生まれた余白の中に拾い集めた言葉や思いを、曲に昇華しようとする日々を送る。

自分軸を取り戻し、古物店を開く

 移住前は音楽活動を辞めることも考えた。30代半ば、将来への不安もあった。莉歩さんの「辞めなくていい。いい歌を歌っているんだから」の言葉が後押しになった。

 移住のタイミングで莉歩さんと結婚。この1年、関東の音楽仲間を招いて、「わたスペ」で音楽イベントを開いたこともあった。自身の人生を振り返るZINEも制作。Podcastの定期配信も行う。近隣住民にもリスナーがいる。日々の暮らしや活動が完全に「自分軸」になった。

 古物店「Sonomono」を開いたのは2025年10月。昔から古いものが好きだったことがきっかけ。「特定のジャンルに絞らず、自分が好きなものを並べている」とケントさん。わたスペの空間に以前から存在していたかのように、古着や花瓶などを並べる。商品はツアー先で仕入れることもある。

 来店客には積極的な声がけはせず、ゆっくりと楽しんでもらうことを心がける。南部町や久慈市など、近隣からもポツリポツリと人が訪れるようになってきた。

わたスペは「自分の出力」のままでいられる場所

 楽曲「ガラクタなまいにち」の歌詞には「壁に向かって『生きたい』と呟く」ともつづる。

 階上での暮らしでは、海岸沿いの神社で物思いにふけったり、種差海岸天然芝地で波や風を感じながら本を読んだりすることも少なくない。目の前の景色が変わった。

「都会での暮らしは、あらゆるものが気を発し、それぞれの出力が混在している。わたスペは、『自分の出力』でいられる。種差海岸で本を読んでいる時、イヤホンを外してみた。『こっちの方がいいじゃん』『もうイヤホンで自分を守らなくて良い』と思った」

 暮らしのリズムも変わった。最近は朝、往復2キロのランニングをすることもある。自宅に来た宅配便の配達員とあいさつを交わすことも、関東では経験したことがなかった。

「階上での暮らしには、血の通ったコミュニケーションがある」

 行き詰まり感はなく、目の前にはさまざまな「余白」が広がっている。もう、壁に向かってつぶやくことはなくなった。

初開催のイベント出演で地域の一員に

 莉歩さんが作った「わたスペ」は、閑散とする階上駅周辺地区に良い変化を与えた。映画上映会、ZINE制作ワークショップ、郷土芸能「えんぶり」のトークイベントなどを開き、地区に新しい人の流れを生み出した。

 Wi-Fiやコンセントを備え、併設するキッチンカーではコーヒーやキーマカレーを提供。日々、読書をする人、友人と会話を楽しむ人が訪れる。

 2025年11月には莉歩さんも実行委員の一人として準備に関わった「かぜ・まち・ひとマルシェ」が階上駅前広場で初開催。飲食や物販でにぎわう会場に、ケントさんの生歌が花を添えた。

 2026年2月11日には階上観光ネットワーク主催の地域振興イベント「はしかみエンタメフェス」が「ハートフルプラザはしかみ」で初開催。階上出身のシンガー・ソングライター古屋敷裕大さんや、郷土芸能団体「田代えんぶり組」、手品師のミスターサプライズさんと共演した。

 古屋敷さんは「人口の少ない階上にシンガーが2人いることは素晴らしい。今回のイベントを機に渡さんと一緒にできることがあればうれしい」と話す。

古物と音楽。階上での暮らしがくれたもの

 福祉の仕事から離れ、階上で音楽と古物店の両輪で暮らし始めたケントさん。かつての拠点だった関東にも度々足を運び、音楽イベントに出演している。

「音楽と古物、寝ても覚めても好きなことを考えていられる」

 階上の魅力は「静けさ」と「人」だという。自然豊かな町で起こる近隣住民や「わたスペ」を訪れる人との新たな関わりが、ケントさんの新しい日常になった。

 階上在住の友人の一人で、「わたスペ」でイベント企画を担当する内城晃代さんは「わたスペのスタッフはみんな、ケントさんのファン。ケントさんが階上に移住したことで、地域に来てくれる人が増えた」と話す。

「ここ(階上)で感じたことを音楽にして、ローカルに染まり切らず、ここ以外の人たちにも届くようにしていきたい。わたスペが音楽と階上エリアの人々の交差点になれば」

 かつてのケントさんは「ガラクタなまいにち」で苦しみをつづった。今、ケントさんは古物を扱う店に立つ。誰かにとってはもう使わない「ガラクタ」でも、別の誰かにとっては大切なものになる。

 移住の覚悟の中で制作した楽曲「人生」は、「遠回りもした、刺さったままの棘(とげ)もそのまま」「終わらせることで始まる物語がある」「人生は思うよりうまくいくものなのかもしれない」とつづる。

 階上での1年を「音楽をもう一度作り直す時間」と振り返るケントさん。「古い物」と「余白」に囲まれた生活の中で、新しい音楽の種を探している。(取材・撮影 二ツ森護真)

 

わたしの素ペース/古物屋Sonomono

住所 青森県三戸郡階上町道仏榊山11−187
階上駅から徒歩約5分
駐車場有・週末を中心に営業

公式サイト
インスタグラム(わたしの素ペース)
Podcast「わたしの素ペース HASH ed Radio」

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